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ひまつぶしのーと

ヒマつぶしに書いてます

狭い世界とその外の世界

日記みたいなもの。

 

 

昨日はバイトから帰ってきて、セクハラのこととかいろいろ感情が鎮まらないままにツイートしちゃったけど。

だれかに対して性的関心を抱くことは自由だし、性欲はそもそも健全なものだとおもうけど、性的な関心は職場内で語るべからず、ってことだよね。

 

「セクハラ」についてかんがえると、いろいろ重たくなるから、それはまたいつか、ってことであたまの中から放り出した。

 

さいきん、ものすごいおもうのは。
もうひとつの仕事の方で知り合う女性たちは、年齢問わず、「オトナの世界」で生きてる知性的な人、って感じることがおおい。

仕事の失敗談とか、恋愛やセックス含むプライベートの失敗談とか、いろいろ聞いたりするけど。
でも、そういうのぜんぶあわせて、「オトナの世界で生きてるオトナ」って、わたしには映る。

 

そういう人たちとどんどん知り合うようになって、もしかして「オトナ」っていうのはこれがあたりまえ?ってかんがえるようになった。

だとしたら、わたしが高校生のときからバイト先で見てきた「年上の女性」たちが、特殊、ってことなのかなー。

 

ぜんぜん人間的に尊敬できるとこがなくて、仕事はいい加減、若い女子を苛めて若い男子にセクハラ、つまんないグループを職場内に作る、家からヒステリー感情を職場に持ち込んでくる。

こういう感覚の人たちが職場内ではマジョリティ、っていう環境でわたしはずっとバイトしてきた。

 

なんなの、この人たち、あたまおかしいの?

って思う感覚のほうがマイノリティだから、それをあらわにすれば、マジョリティから嫌われたり嫌がらせされたりするだけで、職場の空気がいい方向に変わるわけでもないし、従業員同士の労働意欲が高まるわけでもない。

仕事をがんばってもまったく報われない世界。

ここでうまくやるには、性格がおかしいボス的な女性のお気に入りになるしかない。

それができない人が、こころを壊したり、やめたりして、おかしな空気をつくる人たちにはなんの報いもないから、どんどんその人たちが職場内の「正義」や「法律」になって力を増していくだけ。

 

ここで仕事をがんばることに、なんの意味があるんだろう。
って、ものすごいかんがえるようになった。

 

カルト宗教とおなじだよね。
あたまおかしいんじゃないの?っていう感覚の人たちがマジョリティになれば、それが宗教になり、そのボスは教祖になる。
その宗派の経典に従えない「信者にならない人」たちは、教会化した職場から出ていく以外に精神の自由は得れない。

 

家庭の主婦が主になって働く労働環境には、主婦感覚が持ち込まれるのは仕方ない(とうぜん)、っていう解釈をしようとして、わたしなりに「私的感情で職場を支配する」おばさんたちを批判しながら、でも、そういう世界で生きるしかないじぶんはどこでそういうおばさんたちとうまく仕事がしていけるんだろう、っていう課題をじぶんに突き付けてた。

 

ちがう仕事をするようになって、わたしはやっと気づいた。
うちの職場にいるような主婦たちが、世の中の職場にもあちこちいるわけではない、ってこと。

仕事をする上で尊敬できる既婚の女の人が、ほかの場所にはたくさんいて、それがマジョリティで、私的感情で支配する女性ボスの感情的奴隷にならないと仕事ができないなんていう環境が「おかしい」という認識をシェアしあってる。

性格がおかしい人はどこにでもいるだろうけど、そういう人がヒステリーで他人を隷属させようとしても、それをだれもが「あたりまえの正義」にとらえて従うわけじゃなくて、それを批判する感覚がちゃんと存在する。

 

わたしがバイトしてきた環境と、もうひとつの仕事の環境とは、そこで働いている人たちの意識が幼稚園児と大人ぐらいの差がある。

「大人」と働くのは気持ちいい。

人の仕事を認め合う空気は、じぶんの仕事への意欲を高めてくれる。

 

生活費のために、わたしはバイトをやめることはいまは出来ないけど、バイト先の人間関係にじぶんを馴染ませないとじぶんの協調性の欠如のようにおもう感覚を、やっと捨てれた。

あそこの感覚に染まらなければならない理由なんてなにひとつなかった。

あの世界に染まる必要なんてないことを知っただけでも、わたしはちがう仕事をする人たちと知り合えたことはすごいよかったとおもう。

 

これまでのわたし自身の世界がせますぎた、ってこと。

 

ラジオで激辛料理の紹介をやってた。
ナビゲーターが、挑戦した人の大半が食べれなかった、っていう、ものすっごい激辛の料理を食べてみるの。
一種類だけじゃなくて、いろんなお店で。


辛いのがもともと苦手、っていう人だから、そのリアクションのおもしろさも狙ってた番組かもしれないけど。
大半の人が食べれないぐらいの激辛料理を「食べる」って、一種の肉体への暴力だよねー、ってわたしはおもう。

激辛ブームが盛り上がりすぎて、とにかく「辛さ」の強さで勝負、みたいな話題性があるよね。

 

でも、ニンゲンの内臓ってそんな激辛にどれだけ耐えれるのー?
っていう不安がわたしには常にあるから、辛い味は好きだけど、じぶんのカラダのために「ほどほどの辛さ」しか摂らないように気をつけてる。

ある程度の辛さは食欲を増したり、いろいろいい効果もあるんだとおもう。
でも、一定以上の辛さは消化器官の粘膜(皮膚じゃなくて粘膜だからね)をただ損傷させるだけじゃないのー?っておもってる。

「辛さ」にはあんまり規制的な話が出ない。
これ以上の辛さは摂るのはやめましょう、っていう話は、あんまり見聞きしない。
アルコールとかニコチンは摂りすぎに注意、って言われるし、糖分や脂質や塩分もやっぱり摂りすぎに注意、っていうのはあたりまえのように聞く。
でも、辛さは反対にものすっごい辛いものに挑戦してみるグルメ感覚があるよね。

 

ほとんどの人が食べきれなかったっていう激辛の料理を、仕事で食べなくちゃいけないのは、労働的ななんかのハラスメントにならないのー、って気になる。

そんな番組やってると、食べさせられてる人が心配になるし。

 

って、そのラジオ番組聞いててもものすごい気になったから、激辛はカラダにどれだけよくないのかネットで調べてみた。
そしたら、よくないよ、っていうことが書かれた記事をすぐに見つけて、「やっぱりねー」っておもったけど、その記事、よくよく読んでみると、「激辛」を批判したものじゃなくて、辛い味つけの料理がいろいろある特定の国をヘイトした記事だった。

 

そーいう趣旨で書かれた記事が、検索すると目立つところにヒットする。
そのことに、やれやれ、っておもう。

他人の内臓の粘膜心配してる場合じゃないよね。
じぶんの脳にヘンな調味料摂りすぎ。

 

個人的な日記ブログに見せかけて商材ブログだったときの「時間ムダにした感」と同様、健康記事だと思ったら人種ヘイト記事にすぎなかったときの「こんなもん読んだじぶんの時間と記憶をリセットしたい感」の凄まじさ。

いいねボタンのとなりに、アクセスした事実をリセットできるボタンもほしい。

 

地元のサイゼリヤに行くたびに店内にいるお客の外国人率がどんどん高くなっていくのが、すっごいおもしろい。
スペイン語とかイタリア語とかで話してる家族とか、インド人とか中東系の人とか。
だいたいが家族で来てるから、そういう外国人の住民がどんどん増えてるんだなー、っておもう。

 

わたしのバイト先の周辺の職場は中国やフィリピンやベトナムの国から働きに来てる人たちがおおいから、お店も日本人以外の外国の人たちがかなりいる。

飲食店やコンビニは中国人や韓国人のバイトがものすごい増えてる。

 

じぶんの生活圏内に、いろんな国の人たちがいろいろいる、っていうのはすっごいたのしいね。

民族衣装を間近で見れるのもたのしいし、よその国の「家族」の様子を見るのもたのしい。

世の中、日本人だけじゃないんだよー、っていうことを、じぶんの地元で感じれるような変化が起きてる。

 

文化や生活習慣や日常の感覚がぜんぜんちがう異国の人たちが移民として増えると、環境が悪化する、っていう懸念もわたしはわからないわけではない。
その地でまともに食べていけなくなれば犯罪率も高まるだろうし。

だけど、いろんな国の人とじぶんの生活圏内で共存するたのしさはあるなー、っておもう。
じぶんの地元にいながら、いろんな国の人と知り合えたり友だちになれたら、すっごいたのしいよね。

 

外国人と直接知り合う機会のないまま日本で暮らして、そこからじぶんの理解ができない他国にヘイト感情だけを育てることの、ものすごいいびつさをかんじる。

空想上の敵みたいな実体感がないから、どんなひどいヘイト感覚も際限なくカンタンに持ててしまうんだろうなー、っておもう。

 

毎日、出勤前にゴハンを買いに寄る外国人のお客さんがいろいろいる。
好きなものがいつも決まってたり、節約してるのかなーってかんじる買い物の仕方をしてたり。
そこに、その人の「生活のリアル」をかんじる。
わたしたちと同じ生活を営んでる外国人を間近で見てると、べつになにも特殊な感覚も湧かないし、「生活していかなくちゃいけない同じニンゲン」にしか思えない。

その人たちの思想まではわからなくても、「同じ地で生活してる」ことは同じ。

それをひろげると、「同じ星で生きるじぶんと同じニンゲン」になる。

 

個々は違っても。
国は違っても。


たとえば庶民レベルなら、「生活費を毎日働いて稼いでいかなくちゃいけない」のは同じだし、その生活の苦労は似てるものもおおくあるとおもうし。

 

憎しみあう必要のない個人レベルの外国人との接点をいろいろ増やしていくと、「違うけど、同じ」「同じだけど、違う」っていう感覚をじぶんの中でいろいろ育てていけるよねー、ってなんとなく外国人だらけのお店でゴハン食べながらおもった。

 

そのサイゼは日本の田舎街にあるのに、店内では従業員あわせても日本人のわたしのほうが人種的にマイノリティだったからねー。
こういう環境がじぶんの地元にある、っていうのが、すっごいおもしろい。

 

サイゼでカップとソーサーの柄を合わせる人?合わせない人?
わたしは合わせる人(^_^)

 

カップとおなじ柄のソーサーをさがすのがおもしろくて好き。
似てるようでちょっとちがう、っていうのがあるからねー。


このカップ&ソーサーの柄がすごいとおもうのは、ちがう柄の組み合わせでも違和感がないとこ。
おなじような雰囲気でいろんな柄があるのが、すっごいたのしい。

 

https://www.adda-tours.co.jp/shokki/coffee.htm

これ、売ってたんだねー。

 

お店にはもっとほかの柄もあるよね。

 

わたし、このランチェッタっていうチューリップの柄のがいちばん好き。
(ランチェッタってイタリア語でちゅーりっぷ、なんだねー。いま調べて知った)

https://www.adda-tours.co.jp/shokki/cherry.htm

 

ほかには、黄色と緑でハートの柄がついてるのが好き。

 

どんな組み合わせにしても違和感がない、っていうのは、デザイン的にすごいなー、っていつも感心していろんな柄の見てる。

この食器シリーズはサイゼ用のオリジナルなのかなー。
このデザイナーがどんな人か知りたいよねー。

 

 

 

じゃあのー。

 

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 ピグだとエジプトにも行けちゃうよー。