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ひまつぶしのーと

ヒマつぶしに書いてます

《再掲》2270年だって絶望する

※アメーバで書いてた日記ブログから転載。

 

 

:2015-06-12に書いたものです:

 

 いろんな思考が整列しないでわたしのあたまの中でうろついてる。
入場制限かけてもいいぐらい混雑したディズニーランドの中みたい。

なにから言語化しようか迷うから、ちゃんと並んで、ってじぶんの思考に呼びかける。

スプートニクの恋人』を読み終えたことは、あとでブクログはてなブログのほうに書くつもり。

 

あまりに泣けて、それから抜けない余韻をこのままじっと抱いていたい気分。

それから思考がある方面に飛んで、そこからまた飛んで、飛んで、飛んで、小説とぜんぜん離れた場所でいろいろ考えてた。

 

夕べ(っていうか明け方まで)のツイッターでの死刑論の話だって。
人の命を殺されることに激しく憤る人が、そのあたまで、じぶんの許せない人間の死を望む、ということにわたしはどうしても矛盾をかんじて仕方なくて。

 

「正義」っていうものをじぶんの感情による大義名分を掲げて正当化する、ってことは、人の正義にも人の感情による大義名分があるってことで。
じぶんがだれかにとっては「正当な殺す理由」があった場合、そのだれかに殺されても仕方ないことにならない?

 

ならないの?
ほんと?

 

じぶんの命でなくて、人の命。
その人の命を殺すことを容認できることのおそろしさがわたしにはある。

 

「許せない」感情が間違ってるとは思わない。
許し難いことをした人を許せないことには正直でいていいと思う。

 

だけど、人間には理性があって。
その理性というのは、じぶんの感情をそのまま正当化させることではなくて。

じぶんの感情から離れた客観性、っていうものを持つことが、理性かな、ってわたしは考えてて。
許せない罪を犯したものを許さないことと、その許せない人間に死を、という望みはちがう軸にあるとわたしは思う。

 

「許せない人の死」は明らかにそれを望む人の感情的な希望。

ちがう?

 

死んでもいいと思うぐらいに許せない他人がいたとしても、その死の制裁を本当に下すことと、「死んでくれ」と思う感情を抱くこととは、ものすごい違いがある。

死刑を望む考えと、実際の死刑、は、ぜんぜん違う。

 

死んでくれ⇒死刑
というのはあまりに短絡的なかんじがして、その「⇒」のぶぶんに知能が高い人間がなにか知恵をだせないのか、ってとこにわたしは希望を持って向き合い考えたい。

 

昨夜、じぶんの子どもが殺されても殺人犯に微笑めるのか、と問われたけど。
その人はいちども、じぶんの子どもが人を殺す可能性については問わなかった。

 

再犯を重ねる犯罪者には、発達障害などのハンディを抱えた人も多くいる、っていう記事を読んだことがある。
「善悪」を考えれる機能のない人もいる。

人をなぜ殺していけないか、それを理解できないなんらかの脳の問題を抱えている人の罪に死の裁きを下す、というのは、社会の一方的な暴力にもわたしはかんじてしまう。

21世紀にもなって反社会的な凶悪犯は「殺せ」という未だ原始的な社会に、なんとなく絶望もする。


だけど、2270年になったって、染色体異常の反社会的凶悪犯罪者は、なにか進化した矯正治療が行われるわけでもなくて宇宙の辺境の異星に島流し、っていうエイリアン3を見てると、絶望する未来はずっとこれからも続くみたい。


そこから飛んだ「絶望」についてのべつの思考の言語化はまたそのうちに。