ひまつぶしのーと

ヒマつぶしに書いてます

恋する文章

スプートニクの恋人』がだんだん読み進めるのがつらくなってきた。


おもしろいんだもん。
これ読み終わったら、なんかものすごい喪失感に襲われそう。
のめりこむ小説を読み終えた時って、その世界から放り出されたような、じぶんがその世界を失ってしまったような、ものすごい喪失感がいつもある。
いちいち失恋したみたいになる。

 

だからまだずっと読み終えたくない。

 

アイロンかけが終わると、バーゲンで買った安い白ワインをペリエで割って飲み、ビデオで録画しておいたサッカーの試合を見た。「ぼくならこんなパスはしないな」というパスが目につくと、そのたびに首を振ってため息をついた。見ず知らずの他人のあやまちを批判するのはたやすく、心地よい。

 

///『スプートニクの恋人』//村上春樹

 

こういう文章にわたしは恋に落ちる。


スティーヴン・キングの小説も、こんな感じの文章だよね。
具体的になにをしてるか、映像が浮かぶような描写をして、そこにじぶんのこころの中を音声で語るナレーションが聞こえてくる感じの文章。


うまく言えないけど、わたしの心臓にきゅんとなる文章っていうのがある。
そういうのに出逢うと、その小説に恋をする。
小説だけじゃないな。
ブログだっておなじ。


まえからブクマしたりツイートしたりしてるけど。
わたしがいま、恋してるブログはこれ。


 

dreamer-tapir.seesaa.net

 


ツイッターでも、この人がブログやってたらぜったい読みたいなー、って思う人がいる。
ブログやってる人がツイッターもやってる、ってわりとフツーになってきてるけど、ツイッターやってるからってブログもやってる、ってわけではないからね。


リアルだと、いいな、って思った人の「声」を聞いてみたい、っていうのがあるけど。
ネットだと、その人の「言葉」をもっと読みたい、って思う。
読み手に広く語りかける開放的な言葉でなく、書いてる本人に閉じていくような言葉。

 

すみれはぼくから離れて「さびしい」と言う。でも彼女のとなりにはミュウがいる。ぼくには誰もいない。ぼくには--ぼくしかいない。いつもと同じように。

 

///『スプートニクの恋人』//村上春樹

 


「さみしい」の質がちがう。
わたしの「さみしい」と、あなたの「さみしい」と。


そんな思いを何度も抱いて、ときどき言葉にしてみたけど、そんなのはなにも伝わらなかった。
村上春樹が書けば、なんか伝わるかな。
村上春樹を読む人だったから。


なんにもすることのない休日の前日。
(当日じゃダメ。明日は仕事、っていう腐った意識が当日の根底にあるから)
ファミレスの通りが見える窓の横の四人掛けの席に案内されて、窓からつめたい空気が片側の肩だけ冷やして、それがイヤだなー、って思うけど、椅子をちょっとずらして座ると天井の空調の風がもう片方の肩を直撃して、けっきょく窓の冷気を選んで冷えた半身をあたためるために熱いハーブティをドリンクバーから持ってきて、だけど相手の飲んでるジャンクなコカコーラにすごいそそられて、ホットのカップとアイスのグラスふたつテーブルに並べて、「一度に飲むなよ」って言われながら、いま読んでる村上春樹の話をしたら、相手はとっくにそれ読んで「あれはさー」ってわたしの解釈にいちいち持論かぶせてきて「わたしはそう読んだんだからいーじゃん」って言い返しながらメニュー開いて、チョコアイス頼んで「なんでじぶんだけ頼むんだよ」ってメニューひったくられて、相手は和風なパフェとか頼んだりして、それをつつきながら村上春樹論を続ける相手のテーブルから目をそらせなくて、それを一口どうやってもらおうか抹茶のアイスを虎視眈々とねらって半分しか聞いてない話に相槌打つ。


みたいな、だらだらしたハルキトークしたい。


っていうか、こういうの、いつもスプリさんとしてるじゃん。
って気づいたけど。
なんでかちょっと、そうじゃない人としてみたい。


話が「恋する文章」から逸れてる。


っていうか。
ものすごいとりとめなく書いてるから、書き終えてから読んでみたら、一体なにが書きたかった記事なのかじぶんでもわかんなかった。
さいきんこういう、じぶんでもわけわかんない文章を書くのが好き。


わけわかる文章なんて、書いてるじぶんはつまんないんだよね。

 

 

 

 

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