ひまつぶしのーと

ヒマつぶしに書いてます

《再掲》大人のじぶんたちが出来ること

※アメーバで書いてた日記ブログから転載。

 

 

:2015-07-20に書いたものです:

 

またバイトでの話になっちゃうけど、あまりバイトそのものとは関係ない話。

 

わたしたちのあとの時間に入る主婦さんたちが、地元の子ども会みたいなあるイベントの話をしていた。
その参加費を口にしてたから、わたしはその高さに驚いて、
「えー、そんなに高くなったんですか?」
って、つい反応しちゃった。
いままでのとはケタが違うの。

 

そしたら、内容が少し良くなったみたいで、その分だからね、って言われたから、
「でも、そんな金額だと行けない子もいそうですよね」
って言った。

 

「そう?これぐらい普通でしょ」
って、さらっと言われたけど、わたしの子どもの頃だったら、わたしの親は出せてなかったと思う。
出したとしても、なにかほかの生活費を犠牲にしただろうから、それをわたしが知れば、じぶんから「行きたくないから行かない」ってガマンしたと思う。

 

いままでの金額だったら、そんなに苦もなく出せたと思うけど、今年の金額は考えちゃう親も絶対いると思った。

うちには普通じゃなかったですよ、って言いたくなったけど、人にじぶんちの貧乏の話を聞かせたって、相手がリアクションに困るだけだろうからそれは黙ってた。

 

「でも、兄弟がいたらやっぱりきついと思いますよ」
って言ったら、
「きつい人は来なければいいじゃん」
って言われた。

 

普通の顔で、普通の口調で。

 

「でも、毎年たのしみにしてる子だったら、今年行けないのはかなしいですよね」
って言ったら、
「強制参加じゃないんだから、来れる人だけ来ればいいんだし。来れない人のことまでいちいち考えてたらキリないよ」
って、言われた。

「はぁ、そういうもんですか…」
って、わたしがなんかモヤモヤしながら、それでもまだそんなふうに言ったら、
「いろんな家庭があるからね」
って言われたから、
「はぁ、格差、ですね」
って言ったら、
「そういうことになるね。仕方ないんじゃない。現実に格差はあるんだから」
って言われた。

 

わたしはよせばいいのに、なんか黙ってられなくなって、
「でも、地元の子どものためのイベントでしょ?そしたら、地元の子がみんな参加できるようにすればいいのに」
って、言い返しちゃった。

 

だって営利目的の企業イベントじゃなくて、地元の住人たちの親睦会の子ども版なんだから。
そこに企業が参入したから、内容は質が上がったけど、その分、お金がかかるようになったの。

 

「それはもう、そういう現実を知るのも勉強よ」
って言われたから、
「なんの勉強ですか?」
って、わたし、突っかかるように言い返しちゃった。

 

だって、子どもはじぶんの貧困をどうにもできない。
親が貧しいと、子どもも貧しくなる。
その貧しさを自覚することが、どんな勉強になるの?

 

毎年、地元の友だちといっしょに行けたイベントが、今年から、お金のない家庭の子にはハードルが高くなった。
友だちは行けたけど、じぶんは行けなかった。

 

なんの勉強になるの?

 

なにを学ばせる気なの?
そのために格差がはっきりするようなイベントにしたの?

 

社会にはいろんな子ども向けの娯楽がある。
その多くがお金がかかるものなら、家庭の経済力によって、娯楽の経験の差は出来る。
それぐらいは、消費社会だから、仕方ないとは思うけど。

 

だからこそ、地元の子ども会とかは、親の経済力に左右されずに、子どもたちに等しく娯楽の機会を提供出来るスタイルでやることに意義があるとおもう。

 

ふだん、遊園地なんてつれていって貰えない子も、夏休みに地元の大人たちがひとつ、たのしい思い出をつくらせてあげよう、っていう意味のイベントだとわたしは理解してた。

そのために、自治会で寄付を募ったりしてるんだとおもってた。

 

わたしがものすごいモヤモヤしたのは、格差は仕方ない、ってさらっと言われたこと。

 

その日は、もうひとつ、モヤモヤしたことがあった。
お店のゴタゴタで深夜帯のほとんどが辞めちゃったあと、ピンチヒッターみたいな形でかき集めたメンバーでどうにかもたせてる状態。
だから、仕事をまともに完了してなくて、その次の時間帯のわたしたちが、彼らのやり残した仕事をする羽目になってる。
わたしたちは、それじゃなくてもめんどくさい作業を増やされたから、深夜の後始末までやってらんない。

 

わたしたちが出勤すると、深夜組はずーーーーーーっとおしゃべりしてるだけ。
レジ内の補充なんてなにもしないで。
交替すると、レジ袋がぜんぜんないとか、コーヒー豆が空とか、ここまで補充しないでほったらかしにしてきた人たちに呆れるぐらい。

 

あんまりひどいから、ピチ子さんが店長に、深夜の仕事は深夜でやってほしい、って言ったら、それはいまは無理、っていうのがお店側の返答だった。
わたしも店長代理からわざわざ、
「あたまにくると思うけど、深夜の人たち、学生だからいっぱいいっぱいなんだよ。彼らは能力が低いの。それわかってあげて、できる人がカバーして」
って言われた。

 

ハァ?

 

っておもうような話だったけど、わたし、なんかバカバカしくなって、
「能力が低いんじゃ、仕方ないですね」
って言った。


そしたら、

「そうよ。あなたたちはみんな社会人なんだから、出来ないなんて文句言わないでなんとかやって」
って言われた。

 

社会人も学生も、おんなじ時給で働いてる「同僚」じゃんー。
学生の能力が低いなら、時給もその分低くする、っていうのならわかるけど。
っていうか、辞めた人たちも学生だったけど、ここまでひどくなったよー。

 

って、いろいろ文句を並べ立てたくなったけど、わたしたちは三人とも、それっきりなんにも文句言わないで黙って深夜がやらなかった仕事をやってる。
おかげでじぶんの仕事が間に合わないぐらい時間に追われるようになった。

 

わたしたちの次の時間帯の主婦さんたちが、なぜかその話を知っていて、
「あの子たちにそんなに厳しくしないの。あなたたちオトナなんだから、自分たちでなんとかしなくちゃ」
って言われた。

 

わたしは、それでも「能力が低い」って説明されてる人に「ちゃんとやらせてください」とは思ってない。

 

仕事のなにかが出来ない人を、出来る人がカバーする。
それも仕方ないことなんだと思う。

 

そういう思考がある人たちが、なぜ、そのあたまで、子どもの貧困を「格差だから仕方ない」と冷淡に言いきれるんだろう。

うちの学生バイトの能力は「本人たちもどうにもできないから仕方ない」と思って、それをカバーする必要がある、って考えてるんでしょ。

 

子どもの貧困も、「本人にはどうにもできない」ことで、だから、なにか「カバーする」ものが必要。

根本的なものは福祉や行政の仕組みでやるものだろうけど、その子の周囲にいる人間たちにもなにかできることもある。
そのひとつが、「夏休みの思い出作り」っていう目的で開催される地元の非営利なイベントだったりする。

 

払えない子は来れなくて仕方ない、なんていう意識の切り捨ては、「現実を受け入れる」目を養うことではない。
勝手に大人たちが生みだした「格差」によって、いろんな機会を奪われた子たちの世界や未来を狭めるだけ。

 

貧しい家庭に経済的な援助をしよう、なんて話じゃない。
なにかできる範囲で「機会」を増やすサポートをいろいろ考える。

 

去年までは行けてた子どもが今年は行けない、なんていう「機会を奪う」改訂を、非営利でやる地元のイベントに「なぜ必要なの?」ってわたしはおもった。

 

それぐらいはだいたいの家庭は出せるでしょ、と笑われたけど、それならなおさら、「だいたい」から外れる僅かな子たちだけが行けない、という現実を作る。

 

だいたいの子が行けないなら行けなくても傷つかないかもしれないけど、だいたいの子は行けるのにじぶんだけ行けない、って、子どもにムダな傷を与えるよね。
意味もなく、大人が。

 

それが現実。それを知る必要がある。
なんて意識で切り捨てることは、わたしたち一般人のなんのメリットにもならない。
それで得するのは、貧困は自己責任、って社会的弱者を見放して税金をほかに使いたい国家だけ。

 

じぶんの貧困を直視したって、子ども自身にはそれを「いま」どうすることもできない。
貧困の親から自立する大人になるまで、貧困に傷ついて育っていく。
貧困家庭の経済力がいますぐどうにもならない現実があるなら、それによって子どもが傷つかないようにする意識を周囲の大人たちが持つことぐらいはコストがかからないで出来るサポート。

 

想像が足りない大人の方が、想像する力を養う必要があるよね。
子どもに社会の現実を勉強しろ、という前に、その社会を少しでもよくする勉強を大人がする必要もある。

 

大人のわたしたちがじぶんの意識をちょっと変えるだけで、コストのかからない社会の変革はできるはず。