《再掲》それを読む理由
※先日突発的にけしちゃったはてなのブログ。
下書きがシーサーに残ってたので、こっちに再掲します。
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2015-05-13
生活費がぜんぜん足りてない、っていうのに、また雑誌なんて買っちゃった。
今出てるanan。
『人生を変える本。』っていう特集で、見かけた時からなんとなく気になってたけど。
ツイッターで堀潤さんがここで連載はじめた、っていうツイートが流れてきたから、それで思いきって購入。
まだページをペラペラしてみただけだけど。
こーいう雑誌で紹介されてる本を、ただ受身になってそのままぜんぶ読んでみる、っていうのもおもしろいだろーなー。
わたしは読む速度が遅すぎて、たくさん読みたいものがあるのに、それをぜんぶ生きてるうちに読み切れることはぜったいなさそう。
いまは『スプートニクの恋人』を読んでる。
春樹おじさんの。
「いま、これ読んでる」ってこと、けっこう前にツイッターかどこかで言った気がする。
それなのにいまはまだ文庫の90ページ。
ものすっごい遅いー。
わたしはぜんぜん「すみれ」が好きになれてなくて、主人公の「ぼく」側に感情移入するべきなのか、そこらへんの感覚がまだ掴めてないから、読んでても意識が小説の世界に着地しなくてふわふわさまよってる。
この前はやっと春樹おじさんの朝日堂を読み終えた。
これは去年の夏より前だったと思うけど、名義上のカレシと読もうねー、って話をしてて。
あの時からわたしは読みだして、それが読み終えたのがついこの前。
ものすごい難解な小説とかピケティとかだったら、わたしのあたまならこんなに時間かかっちゃってもしょーがないよねー、って堂々言い訳できるけど。
こんなあっさりしたエッセイをよくこんなのろのろ読めたもんだよねー、ってじぶんのあたまにものすごい呆れちゃう。
このエッセイはぜんぜん順番通りに読んでなかった。
さいしょはさいしょのページからちゃんと読んでたけど、途中、なんどもほっぽりだしてて、いつも机のどこかかに雑に置かれてて、なんかの時に気まぐれに手にしてペラペラ開いたとこを読んでみて、っていう読み方してきた。
全体的に他愛ないっていうか他愛なさ過ぎる「なにものこらない」よーな話ばっかだったけど。
でも予想外に春樹おじさんの黒いとこや、なんかグロいことも書かれてたねー。
春樹おじさんは、期間限定でやってる読者からの質問の企画をわたしはものすごい夢中になって読んでた。
「村上春樹」の小説なんてまだ一冊しか読んだことないし、「ムラカミハルキ」を語れるほど春樹おじさんのこといろいろ知ってるわけでもないのに。
ほかの作家がおなじことやってても、のめりこむよーには読まない気がする。
(キングかケッチャムなら読むかも)
これって要は、askの遊びとおなじだよね。
askの残念なとこは、けっきょく悪意の質問の吹きだまりになっちゃうとこ。
わたしが読んでたある作家さんのaskも、さいしょのうちはフツーの質問が来てたけど、そのうち悪意のものが混ざって、それがだんだん続いて、さいごはたぶん同じ人か便乗してる人か、そんな悪意のものばかりになっちゃってた。
その作家さんがぜんぜん感情的にならないで回答してたから、荒れてる印象はなかったけど。
でもあーいうのに寄せられる悪意って傍から見てるとほんとくだらないレベルだから、そーいうものにいちいち「うまくこたえる」だけの質疑応答になっちゃってるのはおもしろくないんだよね。
回答する人の知恵を試してるゲームを見たいわけじゃないから。
人のaskをいろいろ読むのもおもしろいのに、悪意の質問って読み手にもものすっごいうんざりさせてる。
意地悪い質問しておもしろがってるのは、それをしてる本人だけ。
世の中、そんなに意地悪いことをおもしろがれる下劣な人ばかりじゃないから。
春樹おじさんのとこには悪意の質問はほとんどこなかった、ってのは、すごいなー、って思った。
だからか、春樹おじさんもそーういう悪意にムダに構える必要もなくて、春樹おじさんらしい回答をたくさん読ませてくれたよね。
(いまみたら、ちょーど今日で終わりだったー。最後の挨拶読んできたー)
春樹おじさんの回答を読むのがこんなにたのしかった理由は、ものすごい私的なのがひとつある。
春樹おじさんの回答は、わたしの好きだった人からのメールみたいで、その感覚が重なるかんじがじぶんに心地好かった。
わたしが好きだった人は、あんなかんじにいろんなことをわたしに話してくれる人だった。
わたしは、その人とのメールがものすごいたのしみだった。
ものすごいあたまのいい人で(これから生きててもこんなあたまのいい人とはわたしは直接二度と知りあえないとおもう)、あたまがいいからどんな難しい話もわたしにものすごいわかりやすく話してくれる。
その人からもうメールをもらえなくなったいま、たぶん、わたしは春樹おじさんの回答をその代わりにして、それでいつも夢中になって読んでたんだとおもう。
その春樹おじさんのサイトも終わりなんて、さみしいねー。
なんでも終わりは来るね。
話をananに戻すと。
いまちゃんと読んだのは林真理子さんのエッセイだけ。
『本をあんまり読まないあなたへ』っていうの。
ananの読者に向けて、だから、「あなた」は女性なんだとおもう
このエッセイには、読書することを勧める理由が書かれてて。
電車に二人の女の子が乗ってたとして、ひとりはスマホ、ひとりは文庫本を見てたら、どっちが「知的で素敵」に見えるか、っていうの。
スマホで電子書籍も読めるよねー。
って、突っ込みいれたくなっちゃうけど。
でも、この書き方がおもしろいと思った。
じぶんが知的になりたくて本を読む、っていうのはわかる。
でも、知的に見られたくて本を読む、って感覚もあるんだね。
知的で素敵なじぶんになりたい、ってわたしも思うけど。
その「見た目」までは考えてなかった。
外食してた頃、ものすごいステキな女の人を見たことがある。
サラっとした黒髪のショートボブで、黒いメガネかけてて、肌はまっしろで、顎と鼻はすっきり尖ってて、それだけでものすごい知的なイメージ漂わせてて。
その人が本を読んでた。
ただそれだけ。
でも、その席だけ、まるで狙った演出みたいな「読書する女」みたいに、なんかもうカンペキな空気があった。
あの人がノートパソコンでなにか仕事してたり、スマホの画面に指をすべらせてたり、っていうんじゃ、あのカンペキさは崩れるとおもう。
「本」っていうアイテムが、あの女の人をカンペキに「知的に素敵」な人に見せてた。
あの女の人を見かけた瞬間にだれだって恋におちちゃうでしょ、っておもっちゃうぐらい。
あんなステキな女の人には、ものすごい憧れる。
じぶんもあんなふーだったら、なんてこともおもう。
でも、わたしが本を読む理由は、そこにはない。
あのステキな女の人の女の人本体に憧れはあっても。
わたしにとって「本」は、あんなステキなオンナになるためじゃなくて。
じぶんがあたまよくなるために読むものでもなくて。
じぶんをちがう世界にひきずりこんでくれる「どこでもドア」。
それが本の表紙。
それをひらいて、わたしはその中の世界に飛び込む。
それがたのしいから、わたしは本を読む。
じぶんが知的に見えるか、なんてどーでもよくて。
じぶんが知的になったか、なんてこともどーでもよくて。
人生を変える、というより、世界を変える。
その時の「じぶんがいる世界」が、読む本によって変わってく。
それが、たのしい。
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