ひまつぶしのーと

ヒマつぶしに書いてます

巣太肉的ななにか

ぱそこんの解像度(?)がとつぜん粗くなったよー。
なんで?
もう壊れるの?


なにもしてないのに。
っていう言い訳は、ぱそこん素人におおい、っていうネタをなんどとなくネットで見たことあるけど。
ほんとになにもしてないからねー。
いつもとおなじよーにブラウザ立ち上げて、それでツイッターとかアメーバとかいろいろ見てたら、とつぜん、ピグの絵がざらざらしたかんじになって、目がおかしいのかなー、って目薬さしたけどざらざらしたままで、よく見たらわたしの目玉じゃなくて画面の絵がざらざらしてた。
さっきまでピグの絵、フツーに見えてたのにー。
アメーバがおかしいのー?
って、ほかのとこもいろいろ見たり、ブラウザの再起動してみたけど、もうざらざらのまま。
ここもざらざら。


どーでもいーけどねー。
いちいち気にしてるとウツがこじれる。


まえのXPはいちどもヘンなトラブルなくずっと安定して使ってきたけど、ある日とつぜん液晶が真っ暗になって、ぱそこんとして使えなくなった。
たぶん中のデータはちゃんとだいじょーぶだと思うけど、画面が真っ暗だから、なんにも操作できない。
じぶんの顔が映るだけだよね。
それだって、鏡の代わりにならないから、真っ暗な画面のぱそこんってほかになにか使い道があったのかな。
わかんないからXPはそのまま捨ててない。


いまのぱそこんはどんなふーに壊れるんだろ。
ニンゲンも少しずつ脳の回転速度が遅くなったり、思考がざらざらしたり、あたまの中が真っ暗になったり、こころがウィルスに感染したりして、機能が鈍ってくる。
ニンゲンとぱそこんといっしょに壊れていくんだから、それはそれで幸せなのかも。
飼ってるペットといつか死ぬならいっしょに死にたい、っていう愛情もあるからねー。
いっしょにぱそこんと壊れていきたい、っていうのも愛情の一種だよねー。


ぱそこんを愛してる。
ほかに愛するものがないから。


スプートニク(巣太肉って変換されたよ!)の恋人』、ちょっとだけ読み進めれた。
「ぼく」が「すみれ」に欲情しちゃうシーン、なんかすごいどきどきする。


村上春樹はせっくす描写がおおい、っていうのもどこかで読んだけど、わたしが唯一読んだだけの『風の歌を聴け』にはそんな生々しいえっちシーンってなかったからねー。
春樹おじさんの性的な描写、ってこんなかんじなんだー、って、春樹おじさんとはじめてえっちするときみたいなどきどきがあった。


だれかとはじめてえっちするとき、ってどきどきする。
えっちなんて何回も経験してたとしても、えっちそのものにどきどきするんじゃなくて。
だいたい、えっちするとき、って、普段とちがう、っていう面を見るよね。
じぶんもなにかちがう面見せてるのかもしれないけど。


だから、「この人」のそんなちがう面とか、「この人」はどんなふーにえっちするのかなとか、「この人」の服着てるとわかんないカラダの部分とか。
そーいうものを「いまから知る」っていうことに、どきどきする。


スプートニクのその欲情シーンも、そんなかんじ。
えっちなシーンってこんなかんじなんだ、っていうのをはじめて知って、春樹おじさんがこのシーンをじぶんのどこからひっぱりだして書いてるのか想像して、またどきどきする。


この小説、だれに感情移入していいのか、まだじぶんでわかんないかんじだけど。
わたしがどんどん惹き込まれてってるのは、これを書いてる「ムラカミハルキ」を感じてるから、だと思う。


その小説を書いてる作家の気配、っていうのをかんじさせる小説っていいのか小説として失敗してるのか、これもわかんないけど。


ムラカミハルキが書斎のぱそこんの前に座って、キーボードを打ちこんでる。
そんな姿を想像しちゃう小説なんだよね、これ。
風の歌を聴け』のときにはそんな想像はしなかった。
はじめて読んだから、わたしにはまだ「ムラカミハルキ」をイメージできてなかったせいかもしれない。


あれを読んだときより、いまのわたしははっきりと春樹おじさんに恋しちゃってるから、これからなにを読んでも春樹おじさんがぱそこんに向かってる姿があたまに浮かんできちゃいそう。
その小説を書いてる春樹おじさんの気配を感じながら読む、っていうのは、手紙を読むみたいなものかも。


だからそこに性的なことが書かれると、春樹おじさんの性的な感覚がダイレクトに伝わってきちゃうみたいで、わたしはどきどきする。
ただの妄想型読者、だねー。


春樹おじさんの質問サイトが終わっちゃって、なんかヘンな喪失感に襲われてた。
こんどあれが本になるみたいだから、ぜったい買いたい。
そんなお金がそのときあればいーけど。


スプートニクの中で、すみれが「ぼく」に手紙を書き送ってきてる。
(いま、読んでるのはちょーどそのシーン)


こういう手紙、いーなー。
わたしもだれかと、こーいう手紙のやりとりしたい。
手書きで便箋に書いて切手貼って郵送する、っていう手紙じゃなくていーから。
だから、つまり、メール。


だれかとこんなふーに、長いメールを書いて送りつけて、長いお返事を送りつけられて、っていうくりかえしをしてみたい。
でも、だれでもいいわけでもない。
だから、カンタンには相手は見つけれない。


わたしがブログにいろいろ書くのは、そーいうメールの代わりもあるのかな。
ブログは読む相手を特定して想定するわけじゃないけど、「読む人」っていうのはじぶんの向こうにいる。
ただ、ブログだと一方的な発信しかなくて、返信はかえってこないから、askをやってみたり、交換日記みたいなことに憧れたりするのかな。

 

彼女はぼくにいろんな質問をしたし、その質問の答えを求めた。答えが返ってこないと文句を言ったし、その答えが実際に有効でないときには真剣に腹をたてた。そういう意味では彼女はほかの多くの人々とは違っていた。すみれはその質問についてのぼくの意見を心から求めていた。

 

///『スプートニクの恋人』//村上春樹

 

わたしがメールをしたいのは、心から意見を求めたくなるよーな人。
その相手の考えを真剣に聞きたくなるよーな人。


すみれが「ぼく」の存在をそばに欲してる理由、わたしもわかる気がする。
「ぼく」がすみれを必要としてる理由も。(これは性愛的な関係を望んでるのは除いて)


まだすみれがミュウとどーなるのかぜんぜんわかんないし、この物語の展開の予測もつかない段階だけど。
書きたいときに手紙を送ったり、しゃべりたいときに、それが夜中の三時でもしゃべり相手になってもらえたり。
そーいう相手がいる、って羨ましい。


そーいう相手を現実に見つけるのはむずかしいから、ネットにアカウントつくって、そこにいろいろ書くんだね。
きっと。
その向こうに特定の相手がいるわけじゃない、っていうのは、気楽なのかもしれないし、でもこんな小説読むと、その特定のだれか、を欲しくなる。

 

 

 

 

 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

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