できないことはできない、ということ
アメーバにログインして、そこに出てくるいろいろを見てたら、ものすごい突っ込みどころがある記事があった。
個人ブログじゃなくて「ニュース」としての記事だったから、ちょっと反応してみる。
これ書いた人、ADHDをちゃんとわかってない気がする。
だいたい「病気」ではないし。
それになんで「女性」って性別を限定してるんだろ。
わたし自身がADHDとちゃんと診断されたわけではないけど、それを疑うようないろんな症状をじぶんが抱えてて、そのせいで生活に支障があったり、いろいろ悩んだりしてて。
(メンヘラを自称する陶酔をしたいのではないです。現実的に「じぶんの生活で困ってる」「じぶんの症状」についての話)
だから、ここに書かれた「対策」がどれだけ的外れか、ってすごいかんじる。
①時間の管理が苦手
<対策>
時間を区切ったり、ゆるめの時間割を作る。
この対策ができたら、「時間の管理」ができる、ってこと。
この対策に書かれてることができないから、時間の管理ができない、のです。
「時間割を作る」というとこでまず躓く。
●なにをどの時間に。
●この時間はなにを優先に。
このふたつがわかんないあたまなの。
対策はねー。
「だれかわたしの時間割作ってー」
です。
じぶんでは作れません。
②せっかちですぐイライラする
<対策>
自分がせっかちだと自覚し、イライラがおさまらないときはリラックスできるものを見つける。
「せっかち」だからイライラするわけじゃなくて。
やるべきことがうまくできてないから、それができないじぶんにイライラする。
リラックスしてイライラをなくそう、ってことをすると、リラックスすることであたまがいっぱいになって、イライラしてる原因をわすれちゃうシングルタスクなあたま。
リラックスしたあとで、「あー、これやらなくちゃいけなかったんだー」って思いだして、焦ってバタバタ手をつけて、そしたらちゃんとできるわけはぜったいなくて、「あー、なんでー、じぶんー」ってじぶんにイライラ。
ここでまたリラックスしろとか言ったらキケンなループ。
対策はねー。
なにかひとつでも「いまのじぶんに満足」すること。
バタバタいろいろうまくやれてないことでも、「ま、いいか」ってじぶんを許したり、「これはできてるねー」ってやれたことだけ確認したり、いまやらなくちゃいけないことじゃなければ「tomorrow is another day」って宙を見てスカーレットになったり。
あしたになれば「あーん、なんでー、きのうのうちにー、やらないのー」ってまたじぶんにイライラするだろうけど、あしたはあしたの風にまかせませう。←ぜんぜん問題解決になってない
さいわいなことに「あした」は毎日来ます。←いつか「先延ばしのツケの精算所」の看板が見えるあしたが来るかもしれないけど
③結論を急ぎ、失敗する
<対策>
することのメリット、デメリットとしないことのメリット、デメリットを表にする。
これも、この対策ができる人はぜんぜんADHDでもなくて「やればできるちゃんとした人」。
思考を整理して、表にする。←こんなことができないあたまだからいろいろタイヘンなのです。
わたしがかんがえる対策。
「やらなくちゃいけないこと」か「やらなくてもだいじょーぶなこと」かぐらいは判断つけて、後者は余裕がないときはやらない。
やらなくちゃいけないことは、まず「結論(最終的なゴール)」をかくにん。
たとえば。
●確定申告をする(しかない)
●部屋を片付ける(しかない)
●用事で出かける(しかない)
これが「やるしかない」結論のゴールだとしたら。
そこに辿りつくまでの作業をひとつずつに分ける。
確定申告なら。
「領収書をさがしだして集める」←ここからできてなかった人もいる(わたし)
「帳簿を作成(わかんないとこは附箋)」
「わかんないとこを税務署の人にきいておしえてもらう」
「申告書を作成」
「いつでも申告できるぜ、わーい」
わかんないとこを調べながら帳簿つけてると、途中でつかれて息切れするので、附箋で保留にしたままとりあえず作成を終えて、別のときに「おしえてもらう」作業に進む。
部屋の片づけなら。
きょうはここだけ、って範囲を決めて、それだけやる。
準備も「きょうやること」の分しかしない。いろんな用途の洗剤を買いそろえておいたり、「いるかも」っていう仮定でお掃除グッズを用意したりしない。
「いまつかわないもの」まで買うと、その整理ができなくて、「家を散らかすもの」と同化しちゃうからねー。
だから、「きょうやること」も、まず「ゴミ袋に放り込んでいく」ことだけして。
そのあとで「そこの埃もきれいにする」とか「そこに棚を設置」とか「そこにものを整理していれる」とか、つぎの工程をひとつずつやってく。
用事で出かけるなら。
「出かける前」にやっておかなくちゃいけないことのかくにん。
着てく服えらびとか、メイクはどんなかんじでいいかとか(すっぴん可か不可か)、移動の手段とルートとか、帰ってきてすぐ「ゴハン食べれる」「寝れる」ようにしておくとか。
「出先」でやることのかくにん。
ついでにどこかに寄るとか。(ついでの買い物とか銀行での記帳とかいろいろ)
それをメモに書いて持っていく。←脳内保存はキケン
人と会うなら「この人とはここまでしか話してはいけない」範囲のかくにん。
余計なことまで言っちゃわないように。
「やれるだけやっちゃう」っておもうと、途中で焦ったりわけわかんなくなったりするから、ワンタイムワンクエスト。
(ピグのイベントで同時多発のクエストがあると、わけわかんなくなるんだよねー。ひとつずつ配信してー、って)
④片づけられない
<対策>
「使うもの」「使わないもの」「決められない(保留)」に分けて、使ったらすぐ戻すということを習慣づける。
これが「常に」できる人の部屋は散らからない。
片づけれないのは「つかうもの」とかの分類ができないあたまだから。
対策はねー。
「捨てる」「買わない」、つまり「持たない」のミニマリストになることしかない気がする。
「つかわない」って基準だと、「いまはつかわないけど、いずれはつかうかもしれないからとっといたほうがいい?」って悩みだすから。
「捨てる」か「捨てない」かで、まず分けて、家にあるものの数を減らす。
減ったら、またその中で、「やっぱり捨てていい」「とっとく」か再分別して、さらに減らす。
とにかく、「持ってるもの」を減らせるだけ減らす。
文化的な娯楽(本とかCDとか手芸道具とか)や、「思い出」の価値があるものは、好きなだけとっとく。
それ以外の生活必需品は、ほんとに「いま必要」じゃないものはどんどん捨てる。
二度とびんぼーなじぶんには買えない、って値段のものは「でも必要か」ってことをちょっとだけよくかんがえる。
分別に「かんがえる」ことをできるだけ少なくするのがコツ、ねー。
⑤続けられない
<対策>
来月までこれを続けたらどうなるかというイメージを作る。できたらご褒美を用意する。
先のイメージを夢みると、「理想と現実」のギャップに「うへー」ってなるのがオチなので。
ゴールが決まったなら、遠くを見ないで足元だけ見る。
50階まで昇る階段の上見てたら、「こんなにー、のぼるのー」って疲れちゃうので、足を乗せる次の段しか見ない。
一段ずつあがっていけば、いつかは50階に辿りついてる。
その時間配分もかんがえない。
「いまやれること」だけを「やる」。それをコツコツやる。
あたまの中も、やるべきことも、つねにシンプル。混乱しないコツ。
どうしても続けることが苦痛になったら、やり続ける方法じゃなくて、やらなくてもいい道をかんがえる。
その道をみつけたら、そっちに回避。もうやらない。
やらなくてもいい道がなさそうだったら、苦痛かんじるじぶんを無心にして、なにもかんがえずにただひとつずつやり進める。
感情のスイッチのオンオフがコツ。
⑥集中できない
<対策>
自分の状態を把握して、心身ともに疲れたら休息を取り睡眠をしっかりとること。
集中できないのは、疲れたから、じゃなくてー。
あたまの中に思考が複数存在してるから。
だから、「いまやること」は、常に「ひとつだけ」の状態にしておくしかない。
「部屋を片付ける」のも「捨てる」「整理する」を同時にやらずに、捨てるときはひたすら捨てることだけをする。
「整理しながら捨てていく」なんて高度なことはできない低スペックあたまは、とにかくマルチタスクなことはしない。
⑦遅刻してしまう
<対策>
待ち合わせの15分前に到着できるよう、時間を計算しておく。準備を前日にしておく、カバンの中には持っていくものを用意しておく。
だーかーらー。
「時間の計算」なんていうのができないあたまなのー。
対策。
「遅刻」すると人生が終了するものだけは、死ぬ気で時間を厳守する。
仕事がクビになるとか、仕事がもらえなくなるとか、絶対アウトな事態になるものだけは必死になる。
遅刻しちゃったときのための言い訳も用意。
誠実に謝罪したほうがいい場合や、「出がけにおなかが痛くなった」で済む場合とか。
人生終了とはまではいかない場合は。
「遅刻」を許されるキャラになる。
時間にうるさくない人とだけ会う。
そのかわりじぶんも他人の遅刻に徹底的に寛容になる。
待ち合わせは時間をタイトに指定しない。多少待っててもヘーキなお店の中でとか、時間も「だいたい○時頃ねー。ちょっと遅れるかも」ってかんじで決めておく。
日時指定のチケットは買わない。そんなとこには出かけない。
「多少遅刻しちゃってもヘーキ」な人間関係や予定をこころがけてつくってく。
⑧物事を先延ばしにする
<対策>
短期集中の長所を生かして、やるべきことを一つ一つ完了させること。同時進行は避けて、どれも中途半端にならないようにする。
「ひとつひとつ」やって「同時進行はさける」は正解。
でも、「中途半端にならないようにする」って意識を持つと、それができそうもないじぶんに疲れ果てていくだけだから。
じぶんの能力をフル稼働させてカンペキ目指してがんばるキャラ、には死んでもなろうとしない。
「いまやらなくちゃいけないこと」は可能なかぎり最小限にして、小分けする。
「いま」のあいだにやれちゃう容量を「いまやる」。
その「いま」をちょっとずつ繋げていく。
でも小分けした作業の回数は決めない。回数決めると、その全体が「ノルマ」になっちゃうから。
「できるだけやれればいーじゃんー。それがわたしだから仕方ないじゃんー。やれなかったら諦めるしかないよねー」っていう、じぶんにゆるゆる甘くなる。
先延ばしにできることはだらだら先延ばしにする。
もうあとがない崖っぷちになったとき、火事場の馬鹿力的な「がんばり」ができたりするし。
崖から転落決定になったら、落ちたあと、じぶんをどう労わるかしかかんがえない。
崖の下で道をよろよろとさがしませう。
⑨うっかりミスが多い
<対策>
毎日の業務や家事等をルーチン化すること。決めたやり方で決めた時間に行い、繰り返し毎日行うことを習慣づけること。
わたしの働いてきた経験の中で、「ミスをしない人はいない」ってことは知った。
ミスすると人生終了するもの(とりかえしつかないもの)だけは、ミスに徹底的に気をつかう。
たとえば車の運転とか。うっかりミスで人を殺しかねないから。
接客上のミスとか。これでお客を逃したりするから。
支払いも、遅れたら「とめられる」けど、あとで払えば復活するものはだいじょーぶ。
遅れたら解約されて二度と利用できない、とか、そういうダメージから復活する方法がないものは気をつける。
「死ぬ気で気をつけるもの」をできるだけ最小限にしぼって、そこにじぶんの神経を注ぐ。
あとはミスしちゃってもあとでなんとかなるものは、「なんとかする」方法を知っておく。
謝罪が効果的なミスとか、やり直しがきくものとか、恥をかくだけで済むものとか、嫌われちゃったら仕方ないと諦めるとか。
遅刻とおなじで、ミスを許されるキャラを目指す。
それはねー、他人のミスに徹底的に寛容になること。
他人を許せる人は他人からも許される。←わたしの持論
いつも他人に寛容だと、じぶんがすごいミスしちゃっても、人がフォローしてくれたりするから。
じぶんの能力が低い人ができる「じぶんの低い能力でじぶんを殺さない方法」は、他人のダメな部分を責めないこと、だとおもう。
わたしが人から嫌われやすいのは、人を批判するこころを捨てきれないから、だとおもってる。
さいごに。
どうがんばっても「できないことはできない」問題をいろいろ抱えやすい体質の人はいるよね。
発達障害のせいとか、ほかにいろいろ原因があったりするけど。
「できない人」を「できる人」の基準にひきあげることを要求する社会は、「できる人」だけが生きやすくて、そこからこぼれてしまった人たちにはものすごい生きづらいことになる。
「できない人」に「できるようにする方法」をレクチャするより。
「できない人」の「できないこと」を理解して、「できない部分」にその本人以外のサポートがなにか必要か、ってかんがえたほうが、「できない人」も「できる人」もみんながしあわせになるとおもう。
出勤時間をタイトに定めなくてもいい職種は、「○時間勤務」の部分だけ守らせて、出勤時間は幅をもたせるだけで「遅刻でクビ」なんて悲劇も減らせるとおもうし。
プライベートな待ち合わせなんて、ほんと、時間をタイトに決めて少しでも待つとイライラするような状況の待ち合わせ場所を避ける、っていうだけで、だれもが「遅刻」にピリピリしなくて済むしねー。
あとは「だらしない」って思われちゃったとしても、その「だらしなさ」を受け入れてくれる場所をじぶんで作るようにする。
「できないじぶん」が、そのままでもいれる場所とか。
「いろいろダメなとこがある」キャラでいれる人間関係とか。
うっかりミスを放置してしまうと、周囲の人に「あ~、ダメなやつ」とレッテルを貼られてしまいます。そんなことは絶対嫌ですよね。これらの特徴のせいで、本人は精いっぱい頑張っていても認められないのはどうかと思います。
これは、「できない人」だけの問題じゃなくて、「できる人」側の「人のがんばりを認める能力」や、「人ががんばってもできないことを理解(想像)する能力」も要求されてるんだけどね。
ミスをしたとき、「謝罪すること」が可能な空気と、「ミスを回避する方法を聞く」ことが可能な空気があれば、ミスすることはこわいことでもなくなる。
謝罪して、ミスをしないで済む方法を教わる。
そのときに、じぶんにはできそうもないことは相談したり、人に助けてもらう。
このふたつができると、「いろいろできなくてダメ」な人も救われる。
わたしがバイトしてたとこは、謝罪すら聞いてくれないオーナーとか、とにかくあたまごなしに怒鳴るだけとか、対策の方法はおしえてくれないとか、能力が低いぶぶんにサポートがないとか。
これは従業員各自の能力の問題というより、「能力差がある従業員をつかえない」経営者の無能の問題だとおもう。
社会も、各自個人の能力を一律に同基準にそろえようとすることより、いろんな能力差がある人たちみんなが生きやすくなる方法を探っていくことがだいじ、って、わたしはかんがえてる。
発達障害による「できないこと」を問題視するなら、「できないままでも生きていける」器が社会にあるか、ってとこに問題のポイントがあるんだよね。
「できないこと」にはサポートを、「できること」はもっと伸ばしていける、そんな環境。
もし、身近に発達障害の人やほかのいろいろな障害を持つ人がいたら。
「いろんなことができる」側の人たちが、「なにかができない」人も一緒にたのしく生きていけるように、「あの人ができないこと」をそばで理解していけるといいよね。
できないことをいろいろ抱える人は、その自覚をもつことで、じぶんを引け目におもうんじゃなくて、じぶんに必要なサポートを身近な人や行政に要求していけるといいよね。
それを批判されない空気は、「できる人」「できない人」関係なく、だれもが一緒にかんがえて築いていくもの。
「努力」は、それができる人はやる。
できない人には、その理由と必要なサポートへの想像力を。
本を買って貧乏になろう
編集画面がまたつかえるようになってるみたいなので(たぶん)、こっちで書いてみるー。
だいじょうぶそうなら、シーサーでやってた記事もこっちに移して、シーサーはまたはてなが書けなくなったときの避難場所にしようとおもいます。
あちこち移動させてごめんなさいー。
★ ★ ★
1月分の生活費が1万円もないっていうのに、予算の半分以上も本を買っちゃった。
だれかわたしをとめてー。(もう遅い)
- 作者: Robert Descharnes,Gilles Neret
- 出版社/メーカー: Taschen America Llc
- 発売日: 2013/05/15
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ゆうべ書いた日記ブログで、「買ったものの値段をあとからほかで見るべからず」を家訓にすることにしたのに。
ブックオフでこのダリ本を3400円で買ったあと、アマゾンで見たらもっと安く買えてたー。
しかもアマゾンのは英語版。
わたしが買ったのはフランス語版で、ぜったい文章が読めるわけないから、ダリの絵を見るだけの画集としてしかつかえない。
でも、漬物石に転用できそうな780ページのものすっごい厚い(重たい)本で、ダリのいろんな絵がその下絵(?)といっしょにたーくさん載ってて、一生飽きない本だよねー、ってものすっごいこころ惹かれた。
洋書だったから、またいつか買えばいいやって「次」にこの本に出会えるチャンスがあるのかわかんなかったし、パッと書名とか版元とか見ただけで覚えれないからネットで探すのもできないとおもったし。
(本屋さんの本はカメラで撮るのはもちろんだけど、本に書かれてることをメモするのもダメかなー、って迷ったの)
値段より英語版があるのわかってたらそっち買えばよかった、っていう後悔はある。
フランス語はぱそこんでどうやって文字がだせるかわかんないから、写し書きして翻訳サイトで意味調べるのもできないしねー。
だけどどうしても読みたい部分があったら、フランス語の辞書ひきながら読む、っていう練習をするのにはいいかも。
これは生活費も足りてないわたしには「とても買えない」値段だからいちど棚から取り出して、諦めて戻して、それから帰ろうとして「やっぱりー」って戻って、でもまた棚のところで悩んで、「えーいっ」って勢いで買ったもの。
だけど、それで正解だったとおもう。
帰ってからページをテキトーにめくってダリの絵をいろいろ見て。
見るだけですっごいおもしろいの。
なんどとなくブログで書いてきてるけど、旅に実際に出なくてもどこにいても旅はできる、っていうコンセプトで、妄想の旅につれてってくれるわたしの大好きなラジオ番組がある。
このダリの本も、展覧会に行かなくてもダリの世界にひきずりこんでくれる。
ナマの絵と印刷の絵は迫力がちがうんだとはおもうけど、展覧会っていうのは、ちゃんと出かける恰好をして、ほかの他人と一緒の場所で立った姿勢で歩きながら見る、ってことしかできないからねー。
お風呂にはいって、ダレダレになったカラダにラクな服着て、ベッドにはいって、なんか飲みながらだらだら見る、ってのが画集の醍醐味。
好きな絵だけいつまでも見たり、ぺらぺらめくって、あとからページをなんども戻ったり。
わたしはそういう「だらだら鑑賞」がいちばんじぶんに合ってる。
だから「ここにいても絵の世界にはいりこめる」画集は、妄想展覧会みたいなもの。
いまのわたしには、いつかは片づけなければいけない実家、っていうのはないけど、なんとなくこの本を買った。(これは定価で)
これもいちどコンビニで見かけて、パラパラ読みして、そのときは少しも買う気にはならなくてすぐに棚に戻したのに、何日か経って急にこの本が気になりだして、買っておこうかな、っておもったの。
実際にこれから役に立つだろう、っていう意味での購入欲ではなくて。
去年の夏に家族が解散して、わたし以外の家族がみんなで住んでた家から引っ越したあと、いろいろ残されたものをわたしが片づけなくちゃいけなくなった。
あのときのうんざりや怒り、それと親のものをいろいろ見つけるたのしさ。
そういうものを経験したばかりだから、この本に書かれてる実例の体験者のコメントひとつひとつに共感みたいなものが湧いたし、よその家の例に興味が膨らんだ。
「じぶんが育った家」をどう「おしまい」にさせるのか、っていうとこ、ね。
家族の歴史がつまった家。
その終焉は、人生の中でおもたいドラマだよねー、っておもって。
じぶんでいろいろ創作の文章を書くようになって、「人間」とか「人生」とか、そういうテーマでいろいろ読みたくなってる。
じぶんの体験だけではわからない「他人の人生」をいろいろ想像する材料がほしくて。
だから、こういう本も欲しくなった。
暮れから読みだしたこの小説を、わたしにしては早くももう読み終えて、これはブログで感想書くつもりでいるけど。
ものすごい読みやすくて、派手なドラマではない地味なストーリーなのにおもしろかったから、群ようこさんのほかのも読んでみたくなった。
それで、この続編の『働かないの』を買いにいったんだけど(そのときにダリとかいろいろ買っちゃったのです)、そこでペラペラ見たらあたらしい登場人物の話みたいで、なんとなく興味が失せた。
続編がある話は、だいたい新キャラが登場する。
赤毛のアンなんかもそうだけど、それはそれでおもしろいのもある。
でも、わたしはこの『れんげ荘』が気に入ったのは、主人公の女の人自身の人生観だったから、人間模様みたいなぶぶんはこの小説には求めてなくて。
人と人の話、みたいな展開なら続編は読まなくてもいいかなー、っておもって、とりあえず買うのは保留。
それで群ようこさんのちがう話の本を何冊か買った。
『れんげ荘』に、森鴎外の娘の森茉莉の書いた『贅沢貧乏』の話が出てくる。
それも気になったけど、ブックオフにはなかった。
その代わり、これ見つけてこれ買った。
森茉莉さんの『贅沢貧乏』についてのエッセイ。
群さんの本はほかにも森茉莉さんに触れてるものや「びんぼう」の話がいろいろあって、もともとそこにキョーミがある人なんだねー。
じぶんもびんぼうで苦労してる人なのかなー、っておもったら、ぜんぜんびんぼーじゃなかった。
◆拒税新聞
http://www43.tok2.com/home/taxfighter/shinbun/tokubetsu/005/
ほかにもネットでいろいろ見てたら、群ようこさんの稼ぎをお母さんがどんどん浪費しちゃってたらしい。
とられる税金に怒りが湧くほどわたしが稼げるようになれるとはおもえないけど、モノカキって「経費」になるものが少なすぎて収入ほとんどに課税されちゃうよねー、っていうのはかんじてた。
同業の知り合いの人も税務調査受けた話してたし、自宅で仕事してる人は、住居費のどれぐらいの割合を経費で認められるか、それはじぶんの担当になった税務署の署員しだい、みたい。
作家さんの仕事や私生活の様子がわかるエッセイっておもしろいから、エッセイ中心に数冊買った。
着物のエッセイもあったから、それも。
わたしは新年に人の借り物の着物でパーティに出たんだけど、着物っていいなー、っておもったから、ちょっとこれから「和服」にもアンテナのばしたい。
で、『贅沢貧乏のマリア』に話を戻すけど、これを読んでから『贅沢貧乏』を読もうか決める。
森茉莉さんのいろいろをネットで調べてみたけど、わたし自身はそんなにこの方にキョーミ湧かなかったんだよねー。
昔の美しい文体、は読んでみたいけど、天然のお嬢様、っていうキャラクター性に惹かれるものがなくて。
森鴎外にあんまり惹かれないから、かも。
でも食わず嫌いはあまりよくないから、読まないうちに「読みたくない理由」をあまり並べ立てるのはやめとくー。
去年からずっと読んでる本のひとつが、ラノベっぽい文体で。
内容はおもしろいのに、なんかわたしにはどうしても文体が合わない。
なにがじぶんにはダメなんだろう、ってかんがえたけど。
主人公の一人称の文体、はいいけど、その一人称の視点の性的なぶぶんにひっかかるのに気づいた。
もうひとりの主人公みたいな女の人に向けた視点は、意味もなく性的。
その性的な感覚は、リアル、というより、萌え。
ラノベの読者って男性ばかりなのかなー、っておもったけど、どうなのかなー。
かんがえたら、女の人でラノベ好き、ってわたしはいままで周りにいなかったんだよね。
ラノベって、マンガでいうと「少年マンガ」のジャンルなのかな、ってかんがえた。
ラノベをいろいろ読んだわけではないから的外れなこと言ってるかもしれないけど。
ラノベを批判する人は、文体の軽さとか内容の薄さを突いてるのをいろいろ見聞きしたけど、わたしはそういうとこより、地の文に含まれている萌えの性的感覚、がじぶんには合わないんだとおもった。
女性キャラクターの特徴が「髪」とか「おっぱい」なんだよね。
そういうのが好きな人は、こういう文体をたのしめるんだとおもう。
じぶんに合わない理由がちょっとおもしろかった。
わたしがもしラノベを書いてみたら、この萌え視点、はじぶんにはないから、文体をライトにしただけではラノベにはならなかったとおもうもん。
ラノベをもっといろいろ読むと、じぶんには合わなくても、いろいろ「じぶんにはない感覚」の文章は味わえそう。